今日の小和田先生の講義は「今川家と、小田原北条家の滅亡のくだり」でした。
今川義元が 織田信長に田楽狭間(桶狭間)で討ち死にしてから、残った今川氏実一同は、今の静岡市の駿府城跡に有った今川館に居ましたが、武田信玄が攻めて来ましたので、今川館は平地に有り、守りきれないので、静機城(しずはたじょう)に籠ろうと一族郎党其方に向かいましたが、さすが信玄はそれを察知、先回りをしてしまいました。仕方なく今川一族郎党は掛川城に籠る為に向かいましたが、掛川城は信玄と密約した徳川家康が先回りして居て哀れ今川家は滅亡しました。
小田原北条は小田原城を過信していました。以前 上杉謙信や武田信玄に攻められた経験があり、其の何れも「籠城作戦」で撃退しました。小田原城は籠城に適していて1年でも2年でも平気で持つと言われて居ました。上杉軍も武田軍も、其の軍の編成が「兵農未分離」なので、軍事行動が出来るのは「農閑期に限られていた」のです。だから小田原北条軍は城に籠ってジッとしていれば敵軍は農繁期になると引き上げなければなりません。
それが織田信長が考案完成した兵農分離の編成部隊21万を率いた豊臣秀吉にビッシリと包囲されてビックリしました。 第一そんな大部隊が箱根山を越えて来るとは思いも寄らない事でした。先ず当時は兵糧の輸送は馬か人間が背負って行くかですが、あの険しい箱根の山道を21万人分の人馬の食糧の輸送は出来ないだろう、と言うのが小田原北条の予想で、「サル奴に出来るものか!!」とせせら笑っていた事でしょう。
ところが 秀吉軍には石田光成と言う数学・簿記を駆使して補給をする天才がいました。光成は箱根山を通らず、海上輸送をしたのです。小田原港には大きな船が入港できません。そのため沼津に莫大な量の人馬の食糧等を集積して、あとは小船に積み替えて伊豆半島を迂回して小田原まで回漕したのです。伊豆半島中の小船を買占め、まるでベルトコンベアの如く全くロス無くやり遂げたのです。小田原軍は腰を抜かしました。いつの間にか小田原の城下は秀吉軍でビッシリになってます。おまけに京都から歌舞音曲演芸師を読んでお祭り騒ぎです。城内からこれを見た籠城軍はショックの追い打ちを喰らいます。そして 此処で駄目押しです。有名な「小田原の一夜城」ってヤツで、お城の正面から見える山の中腹にカキワリなどで城を書き周辺の木を伐採して、あたかもお城を一夜で築いた様に見せたのです。これがとどめで、「秀吉は神か?天狗か?」と城内一同 肝を潰してたちまち降参しました。
さて 此の講義を聞いて帰り道、静大の坂道を降りる時、綺麗でスタイルのいい女子学生の一団が私の後ろから追い越して行きましたので、彼女達に遅れまいとして道に落ちてて居た銀杏の実を踏んだらしく、スッテンコロリと転倒して、尾丞|骨をイヤと言うほど打ちました。余りの痛さに声も出ず、暫くは唸って居ました。 それなのに彼女達は私に「大丈夫ですか?」と声をかけるでもなく。助け起こすでもなく。綺麗な顔と長く美しい足で通り過ぎて行きました。なんと冷たい事か!!くやしぃー!
美人薄情!!
2008年11月25日火曜日
美人薄情!?!
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