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2010年7月31日土曜日

異常気象



ロシアでは 猛暑が続いているそうです。モスクワで昨日38.2度Cを観測、今迄の新記録だと言うことです。其の為 暑さに慣れて無いロシア国民には、熱中症が続発し、死者は数百人にのぼると言われます。
 また 森林火災が発生、民家1000棟以上が焼けて、25人の犠牲者が出て、なお燃えて居ると言います。プーチン首相は、現地へ乗り込み、消火活動を督励して居ますが、現地人の活動振りがモタモタして居るので、首相が激怒して、責任者の更迭を申し渡したそうです。
 モスクワと言えば、緯度的には札幌よりも遥か北にあり、38.2度Cなんて高温になるとは信じられませんが、余りの暑さに、酒を飲んで水浴びをして、溺死者が1000人以上も出たとか、此れも地球温暖化の所為でしょうか?

昭和天皇

 1945年8月15日 日本は連合国軍に対して、ポツダム宣言を受け入れ、<無条件降伏>をしました。そして 其の13日後の8月28日、僅か150名からなる占領軍先遣隊が無血上陸しました。連合国最高司令官マッカーサー元帥が厚木飛行場に降り立ったのは、其の2日後の8月30日でした。そして 9月27日、敗戦国元首たる天皇は、マッカーサー元帥を訪問しました。此れは天皇の方から「マッカーサーに会いたい」と言われたからです。此の会見は前後11回に亘りました。
 其の会見の様子は、1955年の記者会見で、マッカーサーは回顧して居ます。重要なのは最高権力者マッカーサーが、少なくとも初対面の天皇に<鮮烈なる好印象>を抱いた事です。天皇から<自己弁護の言葉>を聞かされるとばかり思って居たマッカーサーの前で、天皇はこう述べたと言います。
 「私は、戦争遂行の過程で発生した全ての事態に全責任を負う。私は、日本の全指揮官と、全政治家の行動にも責任を負う。私の運命に関する貴下の判断がどの様なものにせよ、其れを下して頂きたい。私は 全責任を負うものである。」
 マッカーサーは此の天皇の言明に感動し、「私は 彼にキスしたい気持ちだった」と述懐して居ます。
 此の時点のアメリカの世論は、77%が<処刑を含む処罰要求及び天皇制廃止>でしたが、マッカーサーの尽力で<象徴天皇として、天皇制>が存続されたのです。
 <昭和天皇の人柄>が当時のアメリカ人の心を動かして、危うく2600年の伝統が絶たれるそうになったのを<自己弁護をせず><許しを乞わず>自然体で守ったのです。
 私は 昭和天皇は只の飾りだったのかな?と思って居ました。然し この原彬久の本を読みまして、改めて其の偉大な人柄を知らされました。 

2010年7月30日金曜日

負けて当然!

昭和16年(1941年)12月8日 吉田茂達が必死の戦争回避運動をしたにもにも拘わらず、遂に日米開戦の火蓋は切られたのです。
 永野護の「敗戦真相記」と言う著書に依れば、『日本軍部が、近代戦の実態を知らず、いたずらに我が民族の精神力なるものを過大評価すると言う、<宿命的な独断>に有って、某将軍の如きは「竹槍と握り飯とを以って米国を撃滅で来る。」と本気になって全国に演説してまわった。一方 米国側は、「いやしくも近代戦の何たるかを少しでもわきまえていれば、此の計算を知って居るに違いないから、戦争は起きる筈は無いと思い込んでいた』更に 『近代戦の勝敗は、「化学兵器」の威力とマネージメントの効率性で決まる。「化学兵器」の日米格差は言うに及ばず、マネージメントの彼我の隔たりは「化学兵器」の其れよりも深刻であった。例えば、工場に欠かせない熟練技術者を兵隊に出して仕舞って、<馬を洗わせたり、壕を掘らせたり>させる一方で、工場の能率が落ちたとなれば、今度は<壕堀りのうまい古参兵を工場に送って来る、と言う逆手を打つ、と言う此の手の事は枚挙にいとまが無い。そして更に<軍部の縄張り争い>だ。戦争資材の奪い合い、必要で有る・無しに拘わらず先陣争いで我がものにして仕舞う。機械部品は全て陸軍・海軍で共用出来ない仕組みになって居た。何故なら 陸軍が右ネジにすれば、海軍は左ネジにする、と言った具合で、実に下らない縄張り争いの齎した最低レベルの状態で、日本は戦争に負けるべくして負けたのだ』
 こんな酷い軍人達に、国の命運を任せて戦争をさせて仕舞ったのです。其の結果、東京、広島、長崎、沖縄で、何十万人もの犠牲者を出し、其の他でも多大な犠牲者が出て、正確な数字すら未だに把握出来ないのです。その未だ浮かばれない600万超の霊魂に向かって、どの様にすれば良いのでしょう。

2010年7月29日木曜日

必死の和平工作

太平洋戦争が開戦されて仕舞っても、吉田茂は戦争の早期終結の為に努力をして居ます。其の最初の切っ掛けは、開戦の翌年 昭和17年2月のシンガポール陥落でした。緒戦以来赫々たる戦果を挙げて来た日本軍は、イギリスのアジア生命線とも言うべきシンガポールを攻略しました。其処で吉田は此の時こそ好機と考え、天皇側近の一人 松平康昌(内大臣秘書官長)を通じて木戸(内大臣)に和平工作の計画を上申しました。木戸内大臣の意中は、「シンガポールが陥落した今こそ、和平工作の好機ととらえるべきである。」と言うものでした。其処で吉田は計画を立て、近衛公をスイスに派遣して和平工作を進める事を考えたのです。吉田からこの計画を聞いた近衛公は驚いた風でしたが、吉田は更に説きました。「海空からは甚だ危険ですが、朝鮮・満州からシベリヤ鉄道を利用すれば多少の困難はあっても、スイス迄行けない事は有りません。貴方はジュネーブで釣りでもして居て下さればいいのです。イギリス・オランダ・アメリカ各国との交渉は、私が奔り回ります」
 かくして吉田は近衛公の希望で、木戸内大臣に話を通す事になりました。そして 吉田は、近衛公をスイスに派遣する計画書を木戸内大臣に提出しました。然し 木戸内大臣は東条英機首相を恐れる余り、此の計画書を握り潰して仕舞ったのです。それで 吉田の折角の計画も敢え無く頓挫しました。
 しかし 吉田は諦めません! 次は戦争末期、今度は自分が命懸けでスイスに和平工作に行こうと言うものでした。つまり 敵軍の目に止まらぬ様に、潜水艦で吉田をスイスに運び和平工作をやろうと言う、奇抜と言うか杜撰と言うか凡そ用意周到とは言い難い計画でしたが、吉田は凄く乗り気で、「危険過ぎるから」と止める人が有りましたが、「死んだっていいじゃないか!!」と本気で言ったそうです。でも 潜水艦の手配が出来ず、此れも不発に終わりました。
 凄いですね!! 今時の政治家達に「国の為に死んだっていいじゃないか!」と本気で言える者が一人だって居ますか?選挙の票勘定ばっかりしている肝っ玉の小さい輩に、此の万分の一の気骨が有ればと思って仕舞います。

2010年7月28日水曜日

敗戦記念日

まもなく65回目の8月15日敗戦記念日を迎えます。
 太平洋戦争の開戦前夜、日本の国内では「欧米討つべし!」一色に染まって居た訳では無かった様です。軍部が武力による脅迫的手段で、新聞・ラジオのメディアを利用したプロパガンダで、無智蒙昧な国民を戦争へと誘導したのです。
 然し 其の中に在って<何とか戦争を回避したい!>と願って居る人が居ました。それは 先ず昭和天皇です。其の時総理大臣になったばかりの東条英機に大命を下すにあたって「9月6日の御前会議(対米英開戦の決議)の決定を白紙に戻して、平和になる様、極力尽力せよ」と東条に伝えて居ます。然し「開戦」へと走る東条は、其れを無視しました。
 次に 吉田茂です。吉田は、東条内閣の外相東郷茂徳に、アメリカが提示して来た「ハル・ノート」が、まるで日本に対する最後通牒であるかの如く解釈されるが、其れは決してそうでは無い!彼の得意の英語で判り易く解読して東郷に示し、此のノートの左上には注釈が有り、其れには<交渉の基礎であり、決定的なものでは無い>と記されている、と説明して、東郷外相を説得するとともに、その足で米国駐日大使グルーと会いました。グルーは此れを聞いて「卓を叩いて語調も荒く」こう捲し立てました。「日本政府あれを最後通牒なりと解釈し、日米外交の決裂と吹聴しているが、大きな間違いである!!」
 吉田はグルーの申し入れを受けて「グルー・東郷会談」を東郷に迫りますが、東郷は言葉を濁してグルーに会いませんでした。結局 東郷には東条英機首相の圧力が効いて居て、吉田茂の「開戦回避運動」は空しく終り、12月8日「真珠湾攻撃」と言うルビコン川を渡って仕舞ったのです。そして哀れな日本国民は、何も分からず何も出来ず、600万人もの貴い命を奪われて仕舞ったのです。

2010年7月27日火曜日

考古学 其の15

今日の静大 滝沢先生の「考古学 第15回」は、今年前期の最終講義でした。それで今回は、今迄の講義に就いて、生徒達からの質問事項に対して先生が答える、と言うものでした。先週の抗議の際に、質問票の形で提出されたものを巧く纏めて、其れに答えながらの講義する、と言うさすが大学の先生だけあって、上手に纏められて居ました。
 其の中でも、特に面白かった質問は「一般人が<遺跡・遺物>を発見したら、何がしかの報酬が貰えますか?」と言うものでした。
 先生の答えは「残念ながら何も貰えません!また 発見した遺物は自動的に国や、地方自治体の物になります。もし 発見した土地が自分個人の所有で有っても、それは矢張り国や地方自治体の所有物になります。以前 テレビの番組で、<徳川幕府の埋蔵金発掘>と言うのが有りましたが、あれも、もし発見出来たとしても、国の所有物になります。それを『俺が見つけたから』と言って<ネコババ>すると<遺失物隠匿罪>と言う犯罪になります。」でした。
 余計な事ですが、もし埋蔵金が見つかったらどうなって居たでしょうね!?!

2010年7月26日月曜日

敗戦・総括

まもなく65回目の「敗戦記念日」が来ます。あの戦争は何だったのか!?!
 初めから勝つ見込みの全くない、そして始め想像した以上に無残な結果をもたらした戦争を、「無条件降伏」して以来65年経った今、私達は重大な忘れ物に気が付いて居ません! つまり 敗戦国家として、「あの戦争の総括を未だにして居ないのです!」確かに連合国に依る極東軍事裁判で、A級戦犯を始めとする戦犯達の処刑・処罰をされましたが、其れを以って我が国の政治家達も、有識者達も、マスコミも、国民達も「あの戦争の総括」が終った、と思って仕舞ったのです。そして其の後 個々には戦後の総括を取り上げた人達は居ましたが、国家的なものとしての総括を未だに為されて居ないのです。
 だから 今尚 中国や韓国、東南アジア諸国から、日本が何時また戦争を始めるか分からない!不気味な国としてのイメージを払拭出来ないと疑われて居るのです。何しろ日本は<勝てる見込みの無い相手に戦争を仕掛ける>と言う馬鹿な国ですから・・・巣年前 北朝鮮系出身の在日の人に衝撃的な事を言われて、非常に驚きました。「金正日が恐ろしいとか、北朝鮮が恐ろしいとか言いますが、日本の方がよっぽど恐ろしい!何しろあの馬鹿な戦争を国民一丸でやって仕舞ったのだから。そして其の事を、なし崩し的に時間と共に風化させようしているのだから・・・再発防止策も無く、其の為の総括もせず!」
 其の<馬鹿な国>になって仕舞った要因をトコトン総括する事が、また其れを正しく認識する事が国家として重要な事であり、其の認識が有る事を、内外に公称する事が対外的な信頼を得る道ではないでしょうか! 近隣諸国から見れば、日本には未だ「大和魂」と言う悪臭漂うゾンビが潜んでいると思われて居るのです。