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2008年10月10日金曜日

小和田教授の講義1

一昨日 パソコンがダウンしてしまい、どうにも立ち上がらない状態になってしまいました。仕方なくOSを再セットアップして立ち上がりましたので、その続きを書きます。

『歴史の記録は「勝者が自分に都合のいい様に脚色して書いた部分」があります。また 「中央から見た歴史」と、「地方に伝わる歴史」とありますが、「中央の歴史」の方が「地方の歴史」より資料的価値が上と言うことは無いのです。つまり 地方に伝えられる民話とか、民謡、古来の伝聞の中にも、従来の歴史書として存在してして来た文書には無い事柄があり、従来の定説が覆ることもあるのです。

例えば 織田信長の比叡山延暦寺焼き討ち事件です。此の記録は公家の山科言継という人の日記に基づいて歴史に残ってます。山科言継と言う人は1527年~1576年迄の50年間、当時の京都周辺で起きた事件、京都の人々の暮らし振りを言刻銘に日記を書いていまして、その信頼性は極めて高いものとされています。だから此の事件は、歴史的事実として疑う余地はない と 思われてきました。

よころが 最近になって滋賀県教育委員会が比叡山の発掘調査をしましたが、「全山数百の僧坊を全焼させて、女子供を交えた三千人を惨殺した」と 伝えられて居るのに、いくら発掘しても焼け跡が見つからなかったのです。いくら四百年以上も前といってもこれは変だ、と言うことで、その後色々調べたら、山科言継は、事件があった日には現場には居なくて京都の町に居た事が判りました。つまり 現場近くから逃げて来た人々から聞いた「伝聞」だったのです。ひょっとすると比叡山焼き討ちはなかったかも知れません。だから 歴史を勉強するには、そういうこともあるので、すべての事柄を丸呑みにしてはいけないのです。』

俗説では その時比叡山はカラッポだった。坊さん達は堕落の極みにあって、僧坊は荒れ放題、坊さん揃ってみんなで長浜の町へ行って酒と女で乱痴気騒ぎをしていた、と言う説もあるくらいです。歴史は面白いですね。!!

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