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2011年2月8日火曜日

本能寺の変

 去る二月六日(日)NHKの大河ドラマで「本能寺の変」を放送して居ました。御存知の通り 明智光秀が織田信長を京都の本能寺に攻め殺した場面です。<下剋上><謀反>等歴史上いろんな言われ方をされて居ますが、あのまま明智光秀が羽柴秀吉に打ち取られて居なければ、天下人になり、<謀反人>の汚名を被る事もなかったでしょう。只 あの事変には今尚大きな謎があります。
 其の1 織田信長ともあろう特別に用心深い男が、無防備な京都・本能寺にたった百人ばかりの手勢で投宿した事です。たとえ光秀で無くとも、野武士・盗賊の類でも襲って来たら危険だ、とは考えなかったのでしょうか? 結局は自信過剰に依る油断だったのでしょうか?
 其の2 徳川家康の行動です。家康は信長に対しては堪え難い怨念が有ります。最も愛し、頼りにして居た長男信康を、謀反の疑いに依って自刃させられ、妻築山殿も殺されて居ます。其れは信康の妻徳姫(織田信長の娘)の讒言に依るもので、家康としては残念の余り晩年になっても「信康が生きて居れば・・・」と口惜しがったと言われて居ます。余程織田信長に対する恨みが深かったのでしょう。
 そこで家康は、光秀と密約・煽動し、本能寺に信長を襲わせたのじゃないか? と言いますのは、本能寺の変の一報を堺の茶人今井宗久から一番早く受け取った、と言われるのは家康ですし、<伊賀越え>と言って伊賀忍者の護衛のもといち早く三河に帰った事と言い、余りにも手回しが良過ぎるのです。まるで 本能寺の変を事前に察知して準備して居たかの様です。
 所が 家康の大きな誤算は、光秀があっけなく秀吉に討たれて仕舞った事です。家康としては、もっと光秀が頑張って、秀吉や、柴田勝家等の織田軍団の武将達が同志打ちをして、戦力疲弊をした所を狙って自分が美味い処を頂こうと言う魂胆だったのでしょう。だから 一旦三河に帰った家康は、急がず京都に向けて緩々と軍を進めて居ましたが、「光秀が負けた!」の報に接するとガッカリしてさっさと三河に帰って仕舞って居ます。
 私は 此の<徳川家康陰謀説>を、戦国史の大家の静岡大学名誉教授小和田先生に直接質問した事があります。すると先生は「其れは無いでしょう」とアッサリかたづけられて仕舞いました。

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