昨日の静岡大学 湯の上先生の講義は「禅宗に就いて」でした。「禅」と言うと誰しも先ず「坐禅」を連想しますが、本来の「禅」は「天を祭る」と言う事だそうです。と言っても、其れが出来るのは地上を支配して居る天子だけに許される事と、紀元100年頃中国で成立した『説文解字』と言う書物に解釈が有るそうです。
其れが永い歴史を経て<心を安定した状態を保って、悟りに至るべく瞑想する修行する宗教となり、これが「禅宗」と言う宗教になり、修行法として定形化されて「坐禅」が行われるようになりました。此の「坐禅」と言うものは私も昔一度だけ真似事を経験しましたが、いったいどう言うものか説明が出来ません。説明出来ないものが「禅」「坐禅」と言うものだそうですが、何と無く其れらしい説明になって居るのが、明治の文豪 夏目漱石の『吾輩は猫である』の猫の独白です。其れに依れば
『達磨大師と言うお坊さんは、足の腐るまで坐禅をして澄まして居たと言うが、たとえ壁の隙間から蔦が這い込んで大師の眼口を塞ぐまで動かないにしろ、寝て居るのでも死んで居るのでもない。
頭の中は常に活動して、廓然無聖などと乙な理屈を考え込んで居る』
つまり 難しく考えると益々分からなくなりますが、禅宗のお坊さんの言うのには、要するに「無念・無想」になる事だ と言われるのですが、此の頭の中を空っぽにして、全ての雑念を払い除けると言う事が私如き凡人には出来ません。修行を積まれた高僧になりますと、其の時 呼吸は半分以下になり、脈拍も20~30位となって、丁度動物が冬眠状態になって居るのと同じ状態だそうです。
修行をすれば 私達もその様な「無念・無想」の境地を経験できるのでしょうか?
2011年11月23日水曜日
無念・無想
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