オバマ大統領が就任して二十五日経ちました。
あの就任演説の有名な「いまや新しい責任の時代だ。国民は国に対する責任、社会に対する責任を意識して果たそう」と言う言葉は勿論アメリカ国民に訴えたものです。が この言葉は日本国民も謹聴すべきではないでしょうか?
我が国の専門家と言われる人達は「此の大変困難なアメリカ経済を、オバマ政権が建て直しが出来るか?」と言う切実な問いに対して、皆さんの論調を見てますと、声を揃えて「大変だ!」とか「難しいでしょう!」と評論家見たいな事を言うだけです。 聞いてて何だか他人事の様に聞こえますが、そんな態度でいいのでしょうか? 対岸の火事ではないのです。
アメリカの事と言えども日本はアメリカがこけたら一緒にこけるのは明らかです。他人事ではありません。今こそメディアの人達ももっと身近な問題として取り上げて「我々日本人も、新しい責任の時代が来たと認識して、国に対して、社会に対してどう責任を果たして行くか?を考えて行動しよう」と全メディアを上げて国民に訴えるべきではないでしょうか? 内閣支持率なんか取り上げて批判ばかりして、企業家達の無責任を論って居る場合じゃありません。
いまや 政治家達は自分の選挙の事ばかり考えて、官僚は私利私欲に奔り、企業家は株主と銀行の顔色に怯えて、決算の帳尻合わせに汲々として国や社会に対する責任なんぞ考慮の暇も無い末期的有様です。 彼らに頼っていては何も良くなりません。
オバマ大統領の言葉を慎んで聞いて、今我々が何を為すべきか?を考え、行動する時じゃありませんか!
2009年2月16日月曜日
新しい責任の時代
2009年2月15日日曜日
異常気象?
昨日のバレンタインデーの我が住む街・静岡市清水区は新記録の気温でした。26.8度Cは6月中旬並みだそうです。未だ2月ですよ!!いったい如何なって居るのでしょう?
何か転変地変でも起きるのじゃ無いか!?!と心配になります。 聞けば 天明の大飢饉の時もこの様な気象状況だったそうです。
其の記録を見ると、「1783年、浅間山に先立ちアイスランドのラキ火山(Lakag醇^gar)が噴火(ラカギガル割れ目噴火)、同じくアイスランドのグリームスヴォトン(Gr醇^msv醇rtn)火山もま1784年から1785年にかけて噴火した。これらの噴火は1回の噴出量が桁違いに大きく、おびただしい量の有毒な火山ガスが放出された。成層圏まで上昇した塵は地球の北半分を覆い、地上に達する日射量を減少させ、北半球に低温化・冷害を生起しフランス革命の遠因となったといわれている。影響は日本にも及び、浅間山の噴火とともに東北地方で天明の大飢饉の原因となった可能性がある。」
この記録は世界的な災害を簡潔に記録して有る文面です。此れだけでも其の物凄い災害規模の想像が出来ます。其の塵やガスで地球の北半球がスッポリ覆われて2年以上も晴れなかったと言いますから、世界中で農業被害が頻発して、フランスでは窮地に追い込まれた農民が蜂起、遂には革命に迄発展したのです。
日本では東北地方の青森・岩手で餓死者が50万人とも100万人とも言われるほど出る事態になりましたが、当時の為政者達は民衆の救済の手を全然打たなかったのです。それでも日本人はおとなしくて革命を起こす所まで行きませんで、精々一揆や打ち毀しをした程度でした。
今の世でも、政治家も、官僚も、企業家もみんな自分勝手で困った民衆の事を助けようとしません。でも 日本人はおとなしいので幸か不幸か革命にはなりません。彼ら自分勝手な奴らの身は当分安泰でしょう。
2009年2月14日土曜日
小和田教授の最終講義5
「偽書」とされた史料の再評価の試み
「甲陽軍鑑」は武田信玄の華々しい活躍を綴った文書ですが、つい最近までは此の文書は「偽書」だとされていました。
その根拠は一昨年のNHK大河ドラマでもお馴染みの山本勘助が実在の人物では無いから、と言われていたからです。此の「甲陽軍鑑」に度々登場して軍師として活躍する山本勘助は、別の信用出来る史料には全然出て来ないから、きっと架空の人物だろうと思われたのです。
所が最近になって釧路市に住む市川さん宅の蔵から武田信玄直筆の手紙を発見して、其の中に「山本勘助」の名前を書いてあったのです。そこで忽ちにして「甲陽軍鑑」が「偽書」の座から一級資料に躍り出た と言う訳です。 其のお陰で山本勘助も実在の人物になり、NHKの大河ドラマにもなりました。
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2009年2月13日金曜日
小和田教授の最終講義4
歴史上の敗者の復活
明智光秀が本能寺の変を何故起こしたのでしょう? 在る人はその理由を考えると50は有ると言ったそうです。つまり それ程単純なものでは無い複雑な事情が有ったのでしょう。
怨恨説、野望説等がよく言われています。確かに信長に人前で殴打されて面目を失ったり、人質に出した義母が、信長が約束を守らなかったばかりに殺されてしまったりして、怨恨の線も否定は出来ません。野望に就いても傍から嗾ける者も有ったかも知れません。然し もし野望が有るのにしては光秀ほどの切れ者が余りにも準備不足です。もっと色々な根回し・段取りが有ったのではないか? いくら「謀(はかりごと)は密なるを良しとする」と言えども呆気ない結果を見ると何か杜撰な計画で、光秀らしくないと言えます。
従って 当時の事情を考える時、朝廷の声を忖度(そんたく)しての行動だと考えます。信長は、安土城を築いて其処を居城としましたが、最上階の六層に信長の居室が有り、その下の五層に御殿を作り、其処に天皇を迎えようとしたのではないか? と言われて居たのです。
つまり 天皇より上に自分が鎮座しようと言う訳です。其れに対して朝廷と其の周囲の人達から「信長 危険なり」の声が挙がって居て、その声に光秀が「此の侭では朝廷が危急存亡だ」と思い、自らの意思で信長を倒した、のだと考えます。
「助光の愚考」私は そのきっかけは家康との直前の密談だったと思います。決行の数日前、光秀は家康の接待をして、お互いの胸襟を開いた話し合いをしています。其処で あるいは其の類の話が有ったのではないか? 家康も、長男信康と正室築山殿を信長に殺されていますから、信長には恨み骨髄です。動機は充分あります。そしてその後の展開で、家康は狸ですから「知らぬ顔の半兵衛」を決め込んだのだ と思えてなりません。その件は 小和田教授に質問した事がありましたが、教授は「其れは無いでしょう!!」と否定されてしまいました。
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2009年2月12日木曜日
小和田教授の最終講義3
今川義元がどうして呆気なく負けちゃったのか?桶狭間の戦いで二万五千の大軍を率いて居ながら、何故たった十分の一の二千しかない織田信長軍に呆気なく敗れてしまったか?と言う謎に就いては昔から色々言われて居ます。今川義元は京都の公家のまねをして、眉を剃り鉄漿(おはぐろ)にして、胴長短足で馬に乗れないので輿(こし)に乗って居たと言われてます。が 実際にはそうではなかったようです。
確かに輿には乗って居ましたが、此れは足利将軍に特に赦された「塗り輿」で大変なステイタスだったのです。 まあ 尾張の子倅・信長如きがシャラクサイ、鎧袖一触(がいしゅういっしょく)捻りつぶして呉れよう。と言った気持ちだったのでしょう。何しろ敵の十倍の大軍ですから無理もありません。
所が 此の「塗り輿」が言わば命取りになってしまったのです。桶狭間と言う狭くなった隘路では、二万五千の軍は細長い列に成って進むしかありません。其処に身動きの取り難い「塗り輿」に乗って義元は進んで行きました。
一方 信長軍は「目標は只一つ 義元だけを狙え!!」と言う命令で、義元を探した訳ですが直ぐに見つける事が出来ました。義元が馬に乗って居れば、二万五千人の中から見つけるのは容易では無かったでしょう。モタモタと探してる内に義元軍の大勢に囲まれて信長軍は全滅させられてしまったかも知れません。然し 義元の乗った「塗り輿」は目立ちますし、狭い所では身動きが取れませんから「それっ!!あそこだ!!かかれ!!」と二千人がピンポイントで突撃したから堪りません。二万五千の兵は何の役にも立たず今川義元はあえなく打ち獲られてしまいました。織田信長の乾坤一擲の勝負でしたが、その後 信長はこの様なイチかバチかの大博打は二度としてませんでした。勝ったと言えども余程怖い思いをしたのでしょう。
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2009年2月11日水曜日
小和田教授の最終講義2
北条早雲の出自をめぐって
北条早雲と言えば「何処の馬の骨とも判らぬ奴」として小説等に書かれて居る人物です。確かに何処からか来て、今川家の支城の興国寺城(今の沼津当り)に居て、伊豆の守護・上杉顕定が眼の届かぬ隙に簒奪し、更に関東公方の足利家の混乱に乗じて瞬く間に伊豆を平定してしまいました。(1493年)
然し 伊豆は山ばかりで平地がありません。そこで 二年後の1495年に平地が多く、人口も多い西相模の小田原に眼を付け、当時小田原城に居た大森藤頼に接近して、信用させた後で騙して小田原城を奪ってしまったのです。
それで 北条早雲・斎藤道三・松永久秀を「戦国の三梟勇」と言って悪者にされて居るのです。然し 戦国の昔では「下剋上」は悪でも何でも無くて至極当たり前の事だったのです。
さて その北条早雲の出自は諸説ありまして、本名は伊勢新九朗ですので、その伊勢氏を調べますと、福井の伊勢氏、京都の伊勢氏、岡山の伊勢氏の三氏が有力です。私は其の内で諸文献を調査の結果、岡山の伊勢氏だと考えて居ます。
そして 其の事で現地に行った時、地元の皆さんはもう欣喜雀躍、なにしろ静岡大学教授文学博士小和田哲男先生のお墨付きを頂いた訳ですから、第三セクターの地元鉄道の駅に其の名を付けて残そうと言って「早雲の郷」と言う駅を作ってしまいました。もし 将来、新説が出て「別の所の方が正しい」と言うことになったらどうしよう?と責任を感じて居ます。
ラベル: 小和田教授の最終講義2
2009年2月10日火曜日
小和田教授の最終講義1
静岡大学の小和田教授が今年三月で定年退官をされます。昨日 その最終講義がありました。有名な教授の最終講義とあって、いつもより広い講堂にOG・OBも含めて立ち見が出る程の超満員でした。テレビのカメラも2台来て取材をしてましたので近々放送されるでしょう。
最終講義は「戦国史研究の成果と課題」として以下の四項目に就いてでした。
1.北条早雲の出自をめぐって
北条早雲出自の諸説
備中伊勢氏説を補強・確定
2.今川義元像の見直し
桶狭間の戦いの虚実
戦国大名今川氏の先進性と織田信長
3.歴史上の敗者の復権
明智光秀
石田光成
関白秀次
4.「偽書」とされた史料の再評価の試み
「甲陽軍鑑」
「武功夜話」
以上の四点の項目に、小和田教授独特の視点から三十六年間の研究の成果を、熱の籠った話で制限時間一杯の九十分間よどみ無く弁舌爽やかで、終わると万雷の拍手喝采でした。
四月の新学期から小和田教授は名誉教授として大学には残られると言う事ですが、常勤では無いと思われますので、此の楽しい講義が常時聞けなくなると思うと、まことに残念です。
此の講義の内容は、明日からのブログにアップしますのでお楽しみに・・・
ラベル: 小和田教授の最終講義1