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2009年2月12日木曜日

小和田教授の最終講義3

今川義元がどうして呆気なく負けちゃったのか?桶狭間の戦いで二万五千の大軍を率いて居ながら、何故たった十分の一の二千しかない織田信長軍に呆気なく敗れてしまったか?と言う謎に就いては昔から色々言われて居ます。今川義元は京都の公家のまねをして、眉を剃り鉄漿(おはぐろ)にして、胴長短足で馬に乗れないので輿(こし)に乗って居たと言われてます。が 実際にはそうではなかったようです。
確かに輿には乗って居ましたが、此れは足利将軍に特に赦された「塗り輿」で大変なステイタスだったのです。 まあ 尾張の子倅・信長如きがシャラクサイ、鎧袖一触(がいしゅういっしょく)捻りつぶして呉れよう。と言った気持ちだったのでしょう。何しろ敵の十倍の大軍ですから無理もありません。
所が 此の「塗り輿」が言わば命取りになってしまったのです。桶狭間と言う狭くなった隘路では、二万五千の軍は細長い列に成って進むしかありません。其処に身動きの取り難い「塗り輿」に乗って義元は進んで行きました。
 一方 信長軍は「目標は只一つ 義元だけを狙え!!」と言う命令で、義元を探した訳ですが直ぐに見つける事が出来ました。義元が馬に乗って居れば、二万五千人の中から見つけるのは容易では無かったでしょう。モタモタと探してる内に義元軍の大勢に囲まれて信長軍は全滅させられてしまったかも知れません。然し 義元の乗った「塗り輿」は目立ちますし、狭い所では身動きが取れませんから「それっ!!あそこだ!!かかれ!!」と二千人がピンポイントで突撃したから堪りません。二万五千の兵は何の役にも立たず今川義元はあえなく打ち獲られてしまいました。織田信長の乾坤一擲の勝負でしたが、その後 信長はこの様なイチかバチかの大博打は二度としてませんでした。勝ったと言えども余程怖い思いをしたのでしょう。

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