江戸時代の古文書を勉強した際知りましたが、「寄せ書き」と言うものが「百姓一揆」に起因したのだそうです。
江戸時代農民達は、一年かけて汗と涙を流して作ったお米を「年貢」として強制的に領主にうばわれました。其の割合は領主が五割、農民が五割と、比較的良心的なものが基本的でしたが、其れはたてまえで、領主の都合で其の割合が六:四になり、七:三、八:二となって終いには農民の取り分が二分しか無いと言う情けない状況になって仕舞うのです。此れでは農民は堪りません。だから 生き延びる為にやむを得ず「誤魔化し」をやります。 然も 作柄が豊作だとか、平年並みの歳は良いのですが、凶作の歳は悲惨です。例え凶作でも上納する年貢の割り当ては「検地」で決められた年貢高は変わりません。東北地方の青森や、岩手では餓死者が出る所までいきました。「天明・明暦の大飢饉」と言われる大飢饉です。此の時の餓死者は数十万人と言われ、餓死者の肉を喰らうとか、お互いの子供を交換して殺して喰らう事も有ったという話です。
そう言う飢饉の時、農民達は止むに止まれず団結して立ち上がったのが「百姓一揆」です。当然 一揆の首謀者は磔(はりつけ)の刑と言う死罪です。其れを覚悟しての「決死の行動」です。
その 一揆をおこす時、領主に提出する「連判状」に名前を署名するのに、一番右はじか、左はじに書くと「首謀者」にされて仕舞います。其れで 丸く円形に「寄せ書き状」に書くのと、誰が「首謀者」か判らないと言う知恵を絞った結果、作られたそうです。然し 領主の方も其れで簡単に騙されては居ませんでした。誰でもいいから一人首謀者らしき者を捕えて磔にすれば、幕府に対して面目が立ちます。適当に一人に向かって「お前だろう!」と言えば、其の男が慌てて「違います!○○です!!」と日頃から憎まれて居る奴の名前を言いますので、其の人は可哀想に村中を引き廻しの上、磔の刑にされたのです。
江戸時代の残酷物語でした。
2010年2月7日日曜日
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