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2010年3月24日水曜日

理想の政治家

 江戸時代 幕府のひざ元で庶民や貧乏旗本達に依る反乱(打ち壊し)が何度かありました。とくに天明時代(1780年代)には、かの有名な老中田沼意次の「賄賂政治」で、商人が絶大な力を持って経済を支配して、幕府を凌駕して居ました。
 増長した商人達は贅沢を極め、武士や町人を馬鹿にして目に余る振る舞い振りだったと言われます。ご政道をあずかる筈の幕府役人も、商人達の御機嫌を伺い、御世辞を使い何がしかの御恵みに尻尾を振る始末でした。
 そんな状態に怒った庶民・下級武士達が堪らず暴発したのが此の打ち壊し事件です。其れで 田沼意次は老中を失脚、代わって老中になったのが松平定信です。
 松平定信は 徳川家一門の田安家の出身で、幼少の頃から俊英の誉れが高く、田安家の二男に生まれた為、白河藩の松平定邦の養子になりました。 もし 白河松平家の養子にならなければ徳川家治の後の将軍になったかも知れない、と言われた程の人物です。
 彼は 文筆も達者で、自分の名前「定信」を分解して「ウ下之人言(うげのひとこと)」と言うペンネームを使って日記風随筆、今で言うBlog的な文書を遺して居ます。
 其れに依れば 当時の庶民の不満が爆発した原因は『武士が自信と権威を失って、商人が傲慢になり、其の横暴・強欲な金儲けぶりに苦しめられた庶民の鬱憤の爆発である。 依って 此の問題の根本的な解決には、<武士の本分を回復させる必要が有る>。其れには「文=学問」と「武=剣道」を奨励して、弛み切った武士の心身を鍛え直す必要が有る。』と 定信は考えたのです。 其処で 幕府直営の教育施設として「素読所」を開設、成績優秀者を褒賞する制度を作り、剣術の大会を催して優秀者を表彰すると言う「文武奨励策」を実施しました。
 つまり 松平定信の偉い所は、役人の発想としては何でも取り締まる事を考えますが、そうでは無くて、其の根本的な改善策を考えたのです。
 今の役人の皆さんに見習って戴きたいものです。

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