昨日は静大・小和田教授の今年最後の講義で、 田沼意次の話がありました。
田沼意次と言えば「賄賂」を連想するくらい、徳川幕府の老中として、権勢を欲しいままにして各大名から賄賂をいっぱい取った事でまるで悪名を残した人と言われてます。
然し 彼の地元 静岡県の相良では善政を施した名君とされています。忠臣蔵で有名な悪者の吉良上野介もそうですが、地元では民の生活を考慮したいい殿様だった様です。
宝暦八年(1758)相良藩主に封ぜられると、翌年には所領の村々に「品々申渡書付」と言う文書を発給して、新藩主として政策方針を打ち出しています。
此の藩の領民は国柄・人情は頗る悪く、漁業やあらめ等をとって売る生活でその日暮らしをして、先の見通して準備をするという生活習慣が無く、いつも赤貧洗うが如き状態でした。
そこで 田沼意次は漁業やあらめ取りだけでなく生活の足しになる副業の奨励をしたのです。
第一に、桑を植えて養蚕を奨励しました。此れは実に詳細に桑の栽培手順から、養蚕の効用についてまで噛み砕いて説明して、それまで漁業意外に知らず、見た事も無い養蚕を勧めました。
第二に、蝋はぜ・かせ・小はぜの栽培を奨励して、栽培技術の改良、開発をして漆蝋の採取を勧めて居ます。
第三に、油桐をを栽培して、庶民の常用の油を此れによって充足させるようにと命じて居ます。
更に 地元の海岸や河口の土木工事をして、相良城下の人々にはかけがえの無い善政を施したと言われています。
権力者に賄賂はつきものです。世々代々の権力者は大なり小なり賄賂の恩恵に浴して来た筈です。なのに田沼意次がまるで惨官汚吏の如く悪名を残したのは何故でしょう? 其れには彼の奇跡的とも言える破格の出世をやっかまれたからです。彼の父親は紀州和歌山藩の足軽でした。その和歌山から徳川吉宗が第八代将軍に成る為に江戸に出る時、吉宗に付いて江戸に行きました。そして江戸に着いて吉宗が将軍になると、足軽から旗本に出世しました。その息子の意次は更に第九代将軍徳川家重になると遂に旗本の最高位の老中にまで出世しました。つまり 奇跡的幸運が親子二代も続いたと言う事で妬まれたのでしょう。
然し 将軍家重が亡くなると後ろ盾をなくした意次は失脚して、後任の老中 松平定信などから痛烈な批判に晒される破目になったのでした。
あまり奇跡的とか異例と言われる出世をすると後が恐ろしいから止めましょう。
2008年12月17日水曜日
賄賂(わいろ)
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