今日の静大の岡崎先生の講義は、先週に続いて「源氏物語 宇治十帖」「浮舟」の続きでした。
紫式部と言う作者は独特の癖が有りまして、此の物語には明らかにモデルと思える人が居ますが、其れを承知して居ながら、敢えて明らかにしません。
例えば「桐壺帝」は源氏物語の書かれた凡そ百年ほど前の、第六十代醍醐天皇がモデルだと言われて居ます。勿論 紫式部はそれをよく承知しながら、実名を明らかにするのを憚られる理由が有ったのでしょう。
或いは 時の超々実力者であり、パトロンでもあった藤原家長の指示があったのかも知れません。何しろあの長大な物語を書くには、其れなりの情報を集めなければなりませんし、当時としては大変な貴重品であった紙をふんだんに入手するには一介の女流作家では出来ません。矢張り其処には藤原家長と言う協力者が居た事は疑う余地がありません。藤原家長は 権力をフルに活用して、物語に必要な情報を集めさせ、用紙を沢山提供した と 思われます。其処で紫式部は藤原家長の意向に沿い皇室を傷付けない様に配慮したのです。
それで 源氏物語の書き出しが「いづれの御時にか・・・」となる訳です。
そして 光源氏が亡くなる時 第43帖「雲隠れ」の巻では ハッキリと光源氏が亡くなったとは書いて居ません。あとの成り行きを読んで亡くなった事を知るのです。
「浮舟」でも 薫と匂宮の二人の男性から想いを寄せられて、進退極まった浮舟が宇治川に身を投げる事になって居ますが、その身投げのシーンは書かれて無くて、川下で水に浮かんでいる浮舟が助けられたと、書かれて居ますが、其の後 浮舟がどうなったのかは分かりません。
此の様に 紫式部の作品は、肝心な部分を書かないで、読者に想像させる、と言う形態的な特徴があります。
2011年6月21日火曜日
源氏物語 浮舟2
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