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2011年12月14日水曜日

忠臣蔵

今日は播州赤穂の浪人が、江戸本所の吉良上野介邸に討ち入り、見事 吉良上野介の首を討ち取った日と謂われて居ます。元禄十五年(1702年)十二月十四日(現在の暦では1702年2月10日未明)漸く夜の明け始めるころやっと吉良を発見、首を取り主君の無念を晴らしたと言うドラマチックな話は、其れから300年以上経ったこんにちでも色褪せる事無く語り継がれて居ます。
 此の話は 元禄時代と言う平和で退廃的な時代で、徳川幕府の政治に対する庶民の不満・ストレスが溜まった処に発生した集団テロ事件だったのです。
 だから幕府としても此れを利用して庶民の不満のガス抜きにしたのです。時の幕府の最高実力者 老中 柳沢吉保は彼等テロリスト達の動向を早くから把握して居り、大石内蔵助を始めとする主要メンバーが、江戸に集結して着々と準備をして居る事を、手に取る様に知って居たと思われるふしが有ります。と言うよりわざと討ち入りをし易い様に、吉良の屋敷を警戒厳重な江戸城近くから、警戒が手薄な本所松坂町に移住させて居ます。
 ですから「打ち入り成功!」の一報を聞いた時、柳沢吉保は「快哉なり!」と 手を打ったと伝えられて居ます。ガス抜き成功です。
 勿論 江戸庶民達の喝采・喜びは物凄く、赤穂浪士を英雄として讃える声は大変なものであったでしょう。幕府内からもかなり「助命嘆願」も有りましたが、然し 天下の御法度で「集団テロ事件」「凶器準備集合罪」で全員切腹になりました。

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