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2009年2月13日金曜日

小和田教授の最終講義4

歴史上の敗者の復活

明智光秀が本能寺の変を何故起こしたのでしょう?
 在る人はその理由を考えると50は有ると言ったそうです。つまり それ程単純なものでは無い複雑な事情が有ったのでしょう。
 怨恨説、野望説等がよく言われています。確かに信長に人前で殴打されて面目を失ったり、人質に出した義母が、信長が約束を守らなかったばかりに殺されてしまったりして、怨恨の線も否定は出来ません。野望に就いても傍から嗾ける者も有ったかも知れません。然し もし野望が有るのにしては光秀ほどの切れ者が余りにも準備不足です。もっと色々な根回し・段取りが有ったのではないか? いくら「謀(はかりごと)は密なるを良しとする」と言えども呆気ない結果を見ると何か杜撰な計画で、光秀らしくないと言えます。
 従って 当時の事情を考える時、朝廷の声を忖度(そんたく)しての行動だと考えます。信長は、安土城を築いて其処を居城としましたが、最上階の六層に信長の居室が有り、その下の五層に御殿を作り、其処に天皇を迎えようとしたのではないか? と言われて居たのです。
 つまり 天皇より上に自分が鎮座しようと言う訳です。其れに対して朝廷と其の周囲の人達から「信長 危険なり」の声が挙がって居て、その声に光秀が「此の侭では朝廷が危急存亡だ」と思い、自らの意思で信長を倒した、のだと考えます。

 「助光の愚考」私は そのきっかけは家康との直前の密談だったと思います。決行の数日前、光秀は家康の接待をして、お互いの胸襟を開いた話し合いをしています。其処で あるいは其の類の話が有ったのではないか? 家康も、長男信康と正室築山殿を信長に殺されていますから、信長には恨み骨髄です。動機は充分あります。そしてその後の展開で、家康は狸ですから「知らぬ顔の半兵衛」を決め込んだのだ と思えてなりません。その件は 小和田教授に質問した事がありましたが、教授は「其れは無いでしょう!!」と否定されてしまいました。

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