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2011年4月11日月曜日

懲りない都知事



 「東日本大地震は天罰だ!」と言った人が、また都知事になりました。然も 2位の東国原候補に100万票の大差をつけて・・・都民の皆さん!本当に此の人を知事にしてもいいのですか?と今更言っても既に昨日の選挙で決まって仕舞った事です。仕方が有りません。
 彼は一橋大学に在学中余りにも数学に弱いので、教授から「君には此の大学は無理だ」と言われた程でした。それで在学中から太宰治や、三島由紀夫に憬れて文学を志したのです。
 1956年 弟の裕次郎のご乱行を小説にして応募した「太陽の季節」が芥川賞を取ったのが世に出るキッカケとなったのです。然し 元々豊かな文才が有った訳ではなく、行き詰っていた処、折しもヴェトナム戦争真っ最中で、此れを取材に行って政治家を志す決心をしたと言って居ます。当時の若者達は何か「若さをぶっつけるテーマ」が欲しくて、みんなヴェトナム戦争を争って取材に行き、レポートを書きました。でも 石原慎太郎のレポートは読んだ事が有りません。きっと没になったのでしょう。其の石原慎太郎を調子に乗せたのが、金権政治で墓穴を掘った田中角栄の後を継いだ三木武夫です。
 突然1968年に参議院選挙に出て当選。調子に乗って1975年都知事選に立候補して、美濃部亮吉候補と戦って大惨敗しました。此れは時の首相三木武夫が何とか都知事を自民党から出したくて、煽てに乗り易い石原慎太郎を担ぎあげたのですが、無残な敗退でした。其の時の石原慎太郎の屈辱の顔は、今でもありありと覚えて居ます。自民党は其の埋め合わせに、石原慎太郎に<次の選挙で、大臣の椅子を用意して居るから>と言う約束をして居ましたので、1976年の参議院選で当選すると約束通り、其の時の福田赳夫内閣で新設されたばかりの、<環境庁長官>に任命されました。別に政治家としてのポリシーも、フィロソフィーも、アイデンティティーも何も無いのにです。
 其の時の石原慎太郎の喜色満面、顔中皺だらけにして「今日は僕の生涯で最良の日です」と言った顔の軽蔑されるべき醜さは、今でも忘れられません。此の男は 只それだけ男です。其れが4期目の都知事です。東京で何か直下型地震とか大事件が起きたら、都民なんか放って置いて真っ先に逃げ出す奴が石原慎太郎です

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