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2009年12月14日月曜日

忠臣蔵



忠臣蔵 12月はやっぱり此れですねぇ~ 日本人のノスタルヒアスを揺さぶってやまない忠臣達の物語です。
 今から300年程前にの兵庫県の赤穂市に、浅野内匠守と言うお坊ちゃん育ちで、我が侭で、酷く癇癪持ちの殿様が居ました。其の殿様が元禄14年3月14日江戸城の松の廊下で、事もあろうに刀を抜いて吉良上野介と言う意地悪爺さんに斬りつける事件を起こして仕舞いました。
 此れを聞いた時の将軍徳川綱吉は激怒して、「身は切腹、家は断絶」と即座に裁断しましたが、当時の世の常識として「喧嘩両成敗」の筈が、浅野に対する処罰はしたのに、喧嘩相手の吉良にはお咎めなしなので、「片手落ちのお裁きだ!」とばかり世論は沸騰しました。
 さぁ 其れからはご存じの筋書き通りで、四十七人の浪士達が翌元禄15年12月14日夜、武装集団となって本所松坂町の吉良邸に討ち入りをして、吉良上野介の首を取りみごと殿様の仇を討ったのが今日です。その後 これ等の四十七士は武士の鑑として英雄になりまして、持て囃す空気が有りましたが、幕府は断固として彼らに切腹を命じました。
日本人は、此の手の悲劇が大好きで、大石内蔵助の率いる武装集団の討ち入りまでの苦労話など、色々なエピソードが芝居になったりしてこんにち迄伝えられています。
 英雄になった四十七士はいいですが、悪者として殺された吉良上野介は気の毒です。300年たった今でも悪者の侭ですから・・・

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