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2010年12月14日火曜日

忠臣蔵

 今日12月14日は赤穂浪士47人が、吉良上野介邸に討ち入り「殿の仇」として討ち取った日だと言われて居ます。
 1702年12月14日 本所松坂町の吉良低には、赤穂浪士の襲撃を想定して清水一学・小林平八郎など手だれの用心棒を雇い、警護を怠り無かったのですが、大石内蔵助をを中心とするメンバーのチームワークの見事さに本懐を遂げられて仕舞ったのです。
 当時の民衆は四十七士に大喝采、忽ち大ヒーロー達になって仕舞いました。昔から日本は「判官贔屓」・「勧善懲悪」大好き人間の国ですから無理も有りません。
 困ったのは将軍綱吉です。殿中で刃傷沙汰に及んだ浅野内匠頭に対して自分が「切腹・お家断絶」の裁定を下したものの、其の家来達の快挙がこれ程の大人気を呼ぶとは「想定外」だったのです。
 仕方なく「有識者達」を集めて会議を開きました。すると 四十七士の助命嘆願が圧倒的でした。綱吉クン個人的には民衆の声を採用して<支持率>の上昇をはかりたい、然し そうすれば自分が下した裁定が誤りであったと認める事になって仕舞います。「困った!困った!ボクチャン悩んじゃう!」と綱吉クンが悩んでいる所へ、国学者<荻生徂徠>先生が登場して「断固切腹を命ずるべし! 恐れ多くも 幕府のお膝元で徒党を組み、大名屋敷に討ち入るとは言語道断、断じて許せません!!」と言う正論を唱えたのです。
 其れでも綱吉クンは「人気回復」に未練が有ったらしく、上野寛永寺の門跡 公弁法親王を訪ねて四十七士の処分方法を伺って居ます。
 法親王が仰るには「確かに 四十七士を助命すれば今の民衆の賛同は得られるでしょう。然し 将来 其の内の一人でも堕落して身を持ち崩す者が現れたら、残り全員の栄誉が駄目になって仕舞います。此処はこの時点で全員に切腹を命じてやるのが彼等の為になるでしょう」と言う事で、悩める綱吉クンも遂に切腹の命令を出したそうです。

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