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2008年12月9日火曜日

徳川家康廟

今日の静大 小和田教授の講義は徳川家康の話でした。

1600年 関ヶ原の合戦で勝利した家康は征夷大将軍となり、江戸に徳川幕府を開きました。  そして1607年将軍職を二代目の秀忠に譲り、大御所として駿府に入りました。 然し 幕府の実権は握った侭で、大御所が駿府で立案決定して、江戸の将軍秀忠は此れを実施すると言う役割でした。

駿府滞在中の10年間に「駿河文庫」をつくり、中国の文献「大蔵一覧」・「群書治安」等を印刷して、尾張、紀伊、水戸の御三家に配ったりしました。

1616年4月17日(新暦5月22日)駿府で亡くなりました。満73歳で、当時の平均寿命からすると大変な長寿です。死因は鯛の天ぷらに当たったと言われて居ます。然し 鯛の天ぷらは現在の様にコロモを付けて油で揚げるものでは無くて、鯛をすり身にして其の侭揚げたハンペンの様なものだったようです。家康はどうもそれを食べ過ぎたのが原因でお腹を壊して病気になり亡くなったらしいのです。

死後は 家康の遺言に依り、静岡の久能山東照宮に鎧に身を固め、西に向かって埋葬されて居ます。「徳川幕府を倒そうとする者は西の方から来る。」だからそれを自分が守ってやると言う事です。そして僅か一年後、日光の東照宮に移設されたのです。然し その時「家康の遺骸を移設した」と言う記録は無いそうです。宮司の落合さんに聞いてもその記録は無いと言う事なので、「発掘調査をしましょうか?」と言いましたら、宮司は「それは駄目です。国の重要文化財ですから」との返事でした。 もしかすると 日光の東照宮の家康廟は空っぽ???かもしれません。

講義終了後 私の兼ねてよりの疑問であった「本能寺の変で、明智光秀をけし掛けたのは徳川家康だった」と言う話が有りますが、先生はどうお思いですか?と質問しました。小和田教授の答えは「そう言う話は有りますが、私は其の説は無いと思います。堺商人の謀略だとか色んな説が有りますが、証拠になる様な文書などはありません。だから 其の説は無いと思います」と言う回答でした。

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