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2009年7月27日月曜日

百人一首 99~100

今日の静大 岡崎先生の講義は「承久の乱」に絡んだ百人一首九十九番と百番の、後鳥羽院、順徳院の作歌の話でした。
 第九十九番 後鳥羽院 人もをし 人も恨めし あじきなく 世を思うゆえに もの思う身は
 第百番    順徳院  ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけりいずれも 侭ならぬ思いに「恨み、辛み」を詠み込んで、昔を懐かしむ「述懐歌」です。
 頼朝を中心に武家の政権が台頭して来た「誠に厄介な鎌倉幕府」の為に、京都の朝廷の荘園を奪ったり貴族の財産を掠奪したりの、武士の専横に悩まされ、昔の醍醐帝、村上帝の治政が理想として聖代とされて居て、優れた帝が自ら優れた政治をして居たと言う時代を懐かしみ、「昔は良かった!昔に帰りたい!」と嘆き悲しんで居るのです。
 此の後 鎌倉幕府は三代将軍実朝が、いとこの公卿に殺される事件が有り、そのドサクサに乗じて後鳥羽院が討幕の旗を挙げました。息子の順徳院も渋々ながら父に従ったと言われています。後鳥羽院の見込みでは、 朝廷側は圧倒的に味方して来る兵が多くて、勝利間違いなし!!でしたが、いざ蓋を開けてみると此れが大誤算で鎌倉側に味方する兵力が信じられない程の数に成り、朝廷側の大敗北に終わりました。そして後鳥羽院は壱岐へ、順徳院は佐渡へ流罪となり、其処で生涯を終えました。
 時代の流れが、朝廷や貴族達ばかりにいい思いをさせる世の中に武士たち民衆がもう厭気が挿して居たのでしょう。
 そして 民衆に裏切られた後鳥羽院の歌、昔にいい時代を懐かしむ順徳院の歌が斯様に詠われたのですが、13世紀の初頭、日本では早くも貴族階級の没落が始まって居たのです。
 今日は 岡崎先生の一言で目から鱗が落ちました「和歌は 一人称の文学だから・・・」 成る程和歌というものが何となく解った気がしました。

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