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2010年7月28日水曜日

敗戦記念日

まもなく65回目の8月15日敗戦記念日を迎えます。
 太平洋戦争の開戦前夜、日本の国内では「欧米討つべし!」一色に染まって居た訳では無かった様です。軍部が武力による脅迫的手段で、新聞・ラジオのメディアを利用したプロパガンダで、無智蒙昧な国民を戦争へと誘導したのです。
 然し 其の中に在って<何とか戦争を回避したい!>と願って居る人が居ました。それは 先ず昭和天皇です。其の時総理大臣になったばかりの東条英機に大命を下すにあたって「9月6日の御前会議(対米英開戦の決議)の決定を白紙に戻して、平和になる様、極力尽力せよ」と東条に伝えて居ます。然し「開戦」へと走る東条は、其れを無視しました。
 次に 吉田茂です。吉田は、東条内閣の外相東郷茂徳に、アメリカが提示して来た「ハル・ノート」が、まるで日本に対する最後通牒であるかの如く解釈されるが、其れは決してそうでは無い!彼の得意の英語で判り易く解読して東郷に示し、此のノートの左上には注釈が有り、其れには<交渉の基礎であり、決定的なものでは無い>と記されている、と説明して、東郷外相を説得するとともに、その足で米国駐日大使グルーと会いました。グルーは此れを聞いて「卓を叩いて語調も荒く」こう捲し立てました。「日本政府あれを最後通牒なりと解釈し、日米外交の決裂と吹聴しているが、大きな間違いである!!」
 吉田はグルーの申し入れを受けて「グルー・東郷会談」を東郷に迫りますが、東郷は言葉を濁してグルーに会いませんでした。結局 東郷には東条英機首相の圧力が効いて居て、吉田茂の「開戦回避運動」は空しく終り、12月8日「真珠湾攻撃」と言うルビコン川を渡って仕舞ったのです。そして哀れな日本国民は、何も分からず何も出来ず、600万人もの貴い命を奪われて仕舞ったのです。

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