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2010年7月30日金曜日

負けて当然!

昭和16年(1941年)12月8日 吉田茂達が必死の戦争回避運動をしたにもにも拘わらず、遂に日米開戦の火蓋は切られたのです。
 永野護の「敗戦真相記」と言う著書に依れば、『日本軍部が、近代戦の実態を知らず、いたずらに我が民族の精神力なるものを過大評価すると言う、<宿命的な独断>に有って、某将軍の如きは「竹槍と握り飯とを以って米国を撃滅で来る。」と本気になって全国に演説してまわった。一方 米国側は、「いやしくも近代戦の何たるかを少しでもわきまえていれば、此の計算を知って居るに違いないから、戦争は起きる筈は無いと思い込んでいた』更に 『近代戦の勝敗は、「化学兵器」の威力とマネージメントの効率性で決まる。「化学兵器」の日米格差は言うに及ばず、マネージメントの彼我の隔たりは「化学兵器」の其れよりも深刻であった。例えば、工場に欠かせない熟練技術者を兵隊に出して仕舞って、<馬を洗わせたり、壕を掘らせたり>させる一方で、工場の能率が落ちたとなれば、今度は<壕堀りのうまい古参兵を工場に送って来る、と言う逆手を打つ、と言う此の手の事は枚挙にいとまが無い。そして更に<軍部の縄張り争い>だ。戦争資材の奪い合い、必要で有る・無しに拘わらず先陣争いで我がものにして仕舞う。機械部品は全て陸軍・海軍で共用出来ない仕組みになって居た。何故なら 陸軍が右ネジにすれば、海軍は左ネジにする、と言った具合で、実に下らない縄張り争いの齎した最低レベルの状態で、日本は戦争に負けるべくして負けたのだ』
 こんな酷い軍人達に、国の命運を任せて戦争をさせて仕舞ったのです。其の結果、東京、広島、長崎、沖縄で、何十万人もの犠牲者を出し、其の他でも多大な犠牲者が出て、正確な数字すら未だに把握出来ないのです。その未だ浮かばれない600万超の霊魂に向かって、どの様にすれば良いのでしょう。

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